昭和52年03月17日 朝の御理解



 御理 解第69節
 「信心は見易いものじゃが、皆氏子から難しゅうする。三年五年の信心では、まだ迷い易い。十年の信心が続いたら、我ながら喜んで、我心をまつれ、日は年月の始めじゃによって、其日其日のおかげを受けて行けば立行こうが。見易う信心をするがよいぞ。」

 大変難しい御理解です。68節は「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ」と大変厳しう教えておられます。ですから、六十九節も「見易う信心をするがよいぞ」と言う「見易う」と言う中に味わいの分かる信心をさせてもらわんと難しいことになるのですね。「其日、其日のおかげを受けて立行こうが」と「其日、其日の立行く」ということは、例えば雨が降っても立行くのであり、風が吹いても立行くのであり、というわけですから、その雨の中にも風の中にも味わいが分からなければ見易いということにはならん。
 昨日、総会が終わりましてから、もう大変永くお風呂に入っとりませんから、お風呂に入ると申しましたら、まだお風呂に入ってはいけません。足の傷口が整うまではお風呂はいけんという、もうそれは本当に医学なら医学ということを段々詳しくなっていけば、それが本当のことが分かってくると本当に大変窮屈なもんだなということを思います。昨日、例えば佐田さんの弟さんがお医者さんをなさっておられますので、わざわざ福岡から私のために出て見えました。
 そして私はあんな診察は初めてでしたけど、もう誰も家族のものはそばに寄せ付けない、もうちょっと入って来てもすぐ出て下さいと、それでもう余程秘密の診察があるかと思うとそうではない。勿論、大変念の入った診察をして下さったんですけど、もう先生のお話を頂いておったら、もう本当に身動きが出来ない位にあります。その身動き出来ない様なことが身に付いてしもうたら楽ですとこう言われる。ああ医学も信心も同じだと思いました。その身に付けてしまうまでが難しいのである。
 もう身に付けてしもうたら、それが日常茶飯事と当たり前のことになってくるわけです。信心しよりゃああも出来ん、こうもしちゃならん、こうせにゃらんと言うた様な、例えば一つの約束の様なものが身に付いてしまえば楽である。ですから、そこのところは味わい、其日其日が立行けば楽じゃという。それに「ここに看護婦さんがおられますなら」と言うので、戎浦さんのことを話ましたから、戎浦さんに直接先生が電話をかけていろいろな指図をして下さいました。
 ですから戎浦さんは本当の看護婦ですから、もう先生から言われた通りに、前の日はお風呂に入っても、ビニールで包んでから足を上げて入るなら良かろうごとあったけど、湯気もいかんということになった。もうどうにもいけない。だから部屋を暖めて、お湯の中にアルコールを入れて、それで身体を拭く以外にいかんという具合に先生から言われた。それで昨日は久冨先生と久富繁雄さんとそれから戎浦さんと総会が終わりましてから準備をして下さってもう物々しいことでこざいましたが。
 ところが部屋を暖めて、全身拭いて頂いて、もう下着から一切着替えて気色が良くなりました。気分が良くなった。ところが一寸スッとしたごたると思うたらちゃんと風邪ひいた。もう今朝から咳が出る。折角皆さんの真心であぁして下さったのに、風邪を引いちゃ本当に相済まんのだけれども、風邪を引いておるということ。風邪を引いたことをお届けさして頂きましたら、こう掛けの字「×」を頂いてね、真ん中に「○」を書いて、これが真心だと<>ね、皆の真心だと。
 だからいくら真心だからというても、その真心を本当なものにするために真心を受けるものが心掛けねばいけない。例えば私の医者はいらん、薬は毒だと言うような生き方、言うならば自然主義の生き方。けれどもやはり皆さんが真心でいろんな薬を持ってきて下さる。いろんな栄養食を持ってきて下さるとそれも真心だから、というてあれも頂く、これも頂くというとかえって胃が悪くなったり、効いたごたるけどかえって悪くなったりというたことがある。
 折角の真心をそれをまあ受け方を正して使わなければ、愈々本当なものにと言う事はなかなか難しい。その本当のものから、本当のものを求めて行くのが信心ですけれども、信者の真心だから、氏子の真心だからと言うてもそれをただ黙って受けただけでは、風邪引くのだ。そこでこれをちょっと直してプラスにする。そのこうちょっと直してプラスにする所が欠けておったんだと思う。
 おまえ自信が欠けておったんだよと、今日頂いてみてからまた改めてより本当のことをわからせて頂いた様な気がするのです。だから私は、其日其日が立行けば楽じゃというのはね、そういう本当なことから本当のことを求めて行く姿勢とか生き方とか、そしてうっかりしておって本当なことをなされずに、風邪を引いたといっても、その風邪を引いた中にです、味わいを、ああ本当に神様のデリケートな働きのすばらしいことだなとその味わいをわかっていけば楽しいのである。
 あの人たちがいらんことをしてくれたから、私が風邪を引いたと、いやその風邪を引く中にも、実にデリケートな楽しさがあるんだということです。そこにはもう限りがない、だから限りのないそういう信心に取り組んで行くのですから、見易いとは思われませんけれども、それを見易うしていくと言う事は、楽しゅうしていくありがたいものにしていくと言う事だというふうに思います。
 昨日の総会の御祈念の後に頂きました御理解「笛吹けど踊らず」と言う事があるが、こと信心に限ってだけはそういうものではない。神様が笛を吹いて下さるのじゃない、親先生が笛を吹きなさるのじゃない、いわゆるおかげを受けるもの、ならここでそういうならば、信者の一人一人が、さあ、四月十六日は春の御大祭だ。半年後には十年祭という大きなお祭りが控えておるんだ。
 それをいかに仕えさせてもらうか、如何に真心を込めさして頂くか、もう春の御大祭一月前になった。総会、この辺のところでひとつ心を大祭に向かう心を作らなければならんという、それが真心。それが一心に現され、そういういうならきっかけを作って頂くような、合楽の場合はシステムになっておるわけで、総会は大祭の一月前、大祭を迎える心準備を出来たかと確かめるために、総会があると言われとるのですから、私は昨日の総会を頂きながら、本当にそれを実感いたしました。
 本当に笛吹けど踊らずと言うたような、いわば感じの集まりでしたけれども、実際に会が始まってみると、やっぱり新館一杯の人達が集まって、そして午後の一人一人の祈願を表明される本当に一分ずつ位な時間で皆さんが生粋のいろんな思いを発表される、もう本当に感動でした。感激で頂きました。皆もそうだったと思うんです。言うならば、もうすでに神様がこちらの思いに、いうならば神様が笛を合わせて吹いておって下さる、という感じの総会でした。ですから、あれが決して嘘ではない。
 皆の願いとか思いというものは、あのまま真心であり、誠であるけれども、あれが言うなら一月後なら一月後に仕えられる大祭までに育てられて、それが本当なものになって、愈々大祭の盛り上がりができたときが本当なものである。それまでに、皆さんのあぁいう心組みとか考え方、または記念祭に向かっての自分の心積もりと言う様なものがです、愈々本当なものになっていかきゃならない。あれを聞かせて頂いて思わせて頂いた事ですけども、総会というのは本当に総会でなからねばいけないと思いますね。
 これは本当にお互いここで私が一言も「さあ集まりなさい総会ですよ」とか申しませんし、また家族挙げて出て来なさいということもありませんけれども、総会というのは合楽の場合は大祭を前にしてのそういう内容を持つところの会ですから、どうしても親子夫婦が揃って出て来なければいけないということを感じました。例えば、高橋さんの例を取りますと、高橋さんがああして御用を一生懸命なさっておられる。昨日は奥さんも来ておった。奥さんが発表しておりました。
 「私がお参り出来ませんけれども、主人がああして毎日御用をさして頂いておるし、日参のおかげを頂いとりますから、とにかく主人の足を引っ張らんで済むような私になりたい。それを私は自分の心に誓っておる」というような発表をしておられました。ですから夫婦が出て来ておるからそれが出来るんです。息子がこげな思いをしとる、家内がこげな思いをしとる、いくら思いをしとってもそれに本当にそうだと一家を挙げてその気にならなければ本当なことはできはせんと私は思うです。
 なら一緒に出て来とってもです、その気にならなければ、出来ることではありませんけども、総会というのはやっぱり総会で、親子兄弟いうなら夫婦、信心を頂いておる一家中のものが集まって、そして総会の内容、意義というものが、大祭へ向けての、ですからさあ、今日からは家族を挙げて、大祭へ大祭へと心を向けるぞ、さあ明日からは信心は少しは違った信心をさして貰うぞ、と言う様な働きになってきて、初めて本当のものになって行くのです。
 家族が勢を揃えて本当な方へ向きが変わった所から信心は見易いものになってくるのです。足をひっぱる者がおったら、もう見易いものになってこないのです。又足を引っ張られるその中にもね、味わいがあると言えば、今日の御理解の様に風邪をひいても神様の言うならば微妙な働きの中にあっての事、成程神様から頂いてみれば、より本当の事、これで良いと思うておったり信者の真心でしてくれる事であるから、しかもその真心の中で体清めさして頂くのであるから。
 もうこれで充分その真心を受けさえすれば良い、と思うておった所が風邪ひいた、みんなの真心で風ひいたそれで神様にその事をお届けさして頂いたら、×(ばつ)の字に○(まる)ね。というこれが信者の真心だと。真心というものは限りのない、だからより本当の事が分かったものが、それをより本当の真心にして行く、言わば心掛けがいるんだ。その信者の真心と、なら皆さんがここで真心ですと言ってお供えをなさるけど、私から見たらそこに不浄のものがあったり、不純なものが有ったりする様な事がある。
 それを私はまた改めて清めたり、取り払うたり、またはお詫びをしたりしてお取次をさせて頂くのがやはり本当な事、より本当なことになって来る訳なんです。真心と言いよるけん真心と言うのは余りもの信心、成程小さい所に心を配るというものが必要である事を感じさせてもらう。一寸その×(かけ)の字を一寸変えただけで+(プラス)になる。そこに信者の真心も生きてくる、なら私も風邪をひかんで済むと言う様なおかげが頂かれるのだけれどもね、ちょっとした手落ちが風邪をひくと言う事になる。
 けれどもそのちょっとした手落ちというところが素晴らしい。その手落ちを教えて下さることが素晴らしい。その手落ちがあれば、もう風邪をひくということが素晴らしい。そういういうならば頂きかたをです、させて頂くというのが、其日其日が立ち行くということ。其日其日が立ち行きゃ良かろうが、風邪をひいたっちや又おかげを頂きゃいいじゃないかと、それでも、なら、それで良いということではない。より本当の事からより本当の事を追求していく、求めて行く。
 又それに処する所の心掛けというものが、迂闊にしておった事に又気づかせて頂いて、より本当の事を願っていく、より本当の事を求めて行くというおかげ、ですから信心は見容易いと言う事は、私共が見容易いものじゃとものにして行かなければいけない。とても見容易い事ではない、この雨風にお参りせんならん、信心ちゃ難しか、しかもこの雨風を衝いてそれを辛抱していくのが信心じゃ、それが身に徳を受ける修行じゃなどと言う事になると難しい事になってくるけれども。
 その雨が風がまた有難いものである楽しいものであることになってくると、それはもう見容易い、難しいものではないということになる。だからどういうことのなかにも、ならたとえば、昨日の総会のことを例にとりましたが、なるほど総会というものは、信者全体が出てからの総会、これは合楽の総会は、そういう意義があるのですから、内容を持っておるのですから、皆がそのことを一人一人に語り合い、話し合い。
 そして分らない人には実意丁寧、愛の心をもってそのことを合楽の総会とは、そういう私どもがそういう思いを起こさしてもらう、そこに神様が奏でて下さる、笛の音も聞こえてくる、そのリズムに乗る。神様と氏子とがそれこそ、笛吹けど踊らずで終わったんではつまらん、私どもが真心を持って、さあ一月前の大祭、一月前の総会でひとつ心つくりをするぞと、心準備をつくるぞと、そういう一心がね。
 次の神様の働きと合流してそこからなんとも言えん昨日の総会に表れた、特に午後に表れたような、もう全館挙げて感動である。一人一人が記念祭に対する、大祭に対する自分の心づもりなどを聞かせて頂いて、本当に感動する。その感動があなたのものである。その感動をまた、より本当なものにして行く為には、やっぱり一人じゃいけなかったな、家内も連れて来なけりゃいけなかった、いや子供も連れて、いや総会の日は一日休業にして総会には参加するべきものであったなと言った様なことも分かる。
 そして信心の醍醐味と申しますかね、成程私どもがその気になった時に始めて神様は普通とは違う、笛吹けど踊らずというけれども、私共が踊ろうと姿勢をとった途端に、神様がもう楽器を構えて下さる。笛を吹く姿勢をとって下さる。踊り始めるともうすでに、神様が笛を吹き始めて下さる。そこにあいよかけよのなんとも言えん味わい、もう金光教の信心味わい、本当に真心というものは、いくら使っても良いもんだと言う様な信心のいよいよ楽しさ有難さ、愉快さを体験することができる。
 毎朝参りよる、ただおかげを頂くために参りよる、もうこげなげさくな信心はなか。こんなつまらん信心はなか。成程おかげを頂くという意味だけでは、それで良いかも知れない。けれども神様と共に喜び合えて初めて本当の喜び、信心の喜びというものはあるのです。おかげを頂く喜びは半分の喜び。そのおかげが消えたらもう寂しうなる。神様と一緒に喜べれる信心、それが言わば徳になる力になる。そういう味わいを愈々味わせて頂けれる信心を頂いたとき、信心は愈々見容易い、信心は愈々有難い、楽しい愉快なものだと言う事になるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。